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●昭和の日(17.7.18)
●総理大臣の靖国神社参拝(17.10.17)
●宗教を知らずして(16.8.13)
●オリンピックガンバレ日本(16.8.19)
●ままならぬ世界(16.9.10)
●「看護婦」の言葉を抹消した平成の政治家 (16.9.17)
 
●昭和の日(17.7.18)
 平成19年4月29日から、「みどりの日」が、「昭和の日」といふ祝日になる事が決定しました。
 何と長い年月がかゝつてしまつたことでせう。多くの方の改正の願望が結実するまでに…。  でも喜ばしいことであります。
昭和天皇様の御誕生の日を、「昭和の日」として心してお祝ひしたいものであります。

 今までの 「みどりの日」は、5月4日となりますので、3日が「憲法記念日」、5日が「こどもの日」で、祝日は現行と同じく3日連続のままであります。
 
●総理大臣の靖国神社参拝(17.10.17)
小泉総理大臣が靖国神社に参拝した。例によつて例の批判がマスコミで騒がしい。近隣諸国と言ふ、たつた二ヶ国の中国・韓国からの批判を紹介し、それにのつとつて批判を展開する。はたして、この批判が正しいのであらうか。

批判するマスコミや批判者はどういふ立場に立つてゐる人なのであらうか。日本人と言ふ立場と言ふより、批判の為の批判に終始する異邦人、異国籍の人と想へてならない。戦時中も国民をミスリードし、今も国民をミスリードする傾向の強いマスコミの論調を我々はしつかり見極める必要がある。その報道姿勢にいかがはしさはないのであらうか。

マスコミを始め、そのやうな人達は本当に信頼するに価する人達であらうか。よくよく考へて見たいものである。豊な批評眼でもつて判断しなければならない。

茶番劇以外のなにものでもない東京裁判での判決を、あたかも正当なる裁判によつて決定されたやうにしか考へない人たちの何と多いことよ。A級戦犯などと云ふ言動を、よく吟味してゐるのであらうか。東京裁判でいふやうな戦犯は、日本にはゐないことを検証しようといふ事すらしないので、無責任なマスコミや占領後遺症の著しい河野衆議院議長のやうな阿保な政治家によつて乗じられるのである。

日本人の良心の砦、靖国神社をこれ以上愚かな連中によつて汚されないようにしたいものである。

日本の為に二つとない生命を捧げた英霊に、総理としてしつかりお参りすることはごく自然なことであり、当然な行為である。それを異国の中韓始め、忘恩の徒にとやかく言はれる筋合はない。

総理の参拝に違和感を覚える人、批判的な人は、敗戦後の占領政策をよく学び、自分がGHQの望むやうな、マインドコントロールされた阿保な国民となつてゐることを反省して、言動を謹んで貰ひたい。そして、戦没者の痛みをわかる素直な人に立ち返つていただきたい。

小泉総理も、嘘つき総理と云はれないやうに、8月15日に参拝すると明言したことを実行するやうにしないといけない。有言実行である。
総理は堂々と靖国神社に参拝してこそ日本の総理である。姑息な参拝では、総理の値打ちも半減するし、日本の未来は暗いと言はざるを得ない。
 
●宗教を知らずして(16.8.13)
宗教を知らないと駄目だなあーとの思いが強くなってきている時に、中谷巌氏(多摩大学学長)が「宗教知らずして世界は理解できず」(産経新聞 正論16、8、13)と、小生の思いのままの題での文が掲載された。
 副題は「学校教育に欠かせぬ重要な視点」とあり、学校教育に必要なことを訴えたものだが、それはそれとして早速読む。
 一読の価値あり。「現在のアメリカとイラクの戦いも背後には、キリスト教とイスラム教の運命的対立がある。」とするのだが。
 宗教的対立とならないように、それが全面に出ないようにアメリカは気を使っていると思えるけれども。
それはともかく、その中の二点につき感想を述べる。

①氏は、近代以降今日までの約四百年近くの間は、西欧諸国が非西欧諸国を圧倒し、圧力をかけ続けた時期で、太平洋戦争もその一環であったとする。
 この視点は新しいわけではないが、大東亜戦争を論じる方々に聴いてほしい点である。氏も未だ「太平洋戦争」とおっしゃる。もうそろそろ、正しい名称(大東亜戦争)を使っても大丈夫であろうに。

②中谷氏の神仏習合での説明に異
氏が米国の大学院に留学していたとき、クリスマスツリーを飾り、同級生のアメリカ人を招待し、夕食を共にしたという。その時に、彼は怪訝な顔をし、「クリスチャンでもない君がクリスマスツリーを飾っているのか」と発言したという。我々日本人なら違和感がないことが、彼には、理解不能だったのである。
 異教徒の日本人がクリスマスをすることがどうしても彼には理解出来なかったと記している。彼はユダヤ人であったのである。ユダヤ人はクリスマスを祝わない。
 ユダヤ人のみならず、一神教を奉ずる人は、異教のカミを拝さない。それが当然の行動基準であるからである。それ故、宗教戦争になれば、悲惨なのである。
 我々日本人とは根底で異なる態度なのである。それ故、日本人は世界で理解されにくいと言われる。しかし、日本人のこの態度こそ、世界平和の鍵を握っているのである。
 氏は、日本人のそのような態度を「本地垂迹説」(仏が神の姿となって現れる)に根拠を置き、神仏習合(すべて目の前に現れる神様は仏様が姿を変えているにすぎない)の考えとして説明している。
 そうではなくて、ほとんどの日本人がどんな神様も否定せず受け入れるのは、唯一絶対でない、八百万の神々が共存しておられるとの思想に基づくのだとしないと誤りであろう。
 
●オリンピックガンバレ日本(16.8.19)
アテネでの日本選手の健闘は、素晴らしい。益々の活躍を期待し、願つてゐる。
開始早々の柔道谷亮子選手の連続、野村忠宏選手の三大会連覇といふ、金メダル獲得の偉業が好結果をもたらしてゐるのであらうか。それもあらうが、それをはたせる実力が根底になくてはかなはない。
寝不足の人も多いと想ふ。体調には、くれぐれも気を付けて観戦なり応援をして貰ひたい。選手には、日頃の成果を十二分に発揮して栄冠を勝ち得て欲しいものである。ともあれ、頑張れ、日本である。

過去何度かのオリンピックと今度のアテネオリンピックでは、日本の応援といふか、日本人の応援が著しく異つて来たやうに感じてゐる。
応援に日本人のまとまりが感ずるのである。敗戦占領された日本が、日韓共同開催のワールドカップあたりから、国歌国旗に対して、変な意識を強調する連中から、完全に脱皮したやうに想へる。
六十年といふ年数が、大きな転換をもたらしてゐるのかも知れない。昭和20年8月に鉾を収めてから数へて、もう60年になんなんとするのであるから。

何と素晴しい国旗であることよ。我日本の旗は。単純にして最高なる国旗ではなからうか。これ程すばらしいデザインの国旗は他にはない。まさに世界一なり。

枯渇したのではないかといはれる日本のよさが、日本人のよさが、オリンピックを通じて、国歌国旗を通じて、一体感を堅持して、より強く、より光輝くことを願つてやまない。
 
●ままならぬ世界(16.9.10)
 我々日本人なら、そうなんだから、早くそうしてくれたらいいのにと思うことが、なかなか国際社会では、そうは問屋が卸さないことが多い。いや、ほとんどだと言っても過言ではない。そこが、甘い考えの日本人と評されもし、自分でもそのように思ってしまう。 善意に物事を解し、性善説に立つ日本人が、国内に居る時は問題ないことが、日本から一歩外に出たら、性善説では通らないという厳しい現実を知らないと痛い目にあいかねない。
 多くの国や国民や民族が、性悪説の世界で生きているのである。日本は、性善説に立脚しているから、およそ物事の判断の立脚点が異なるのである。それを、念頭に置かないでいては、真の交流や交際、交渉も難しい。
 日本人は、「祓え」の世界、「祓え」の 文化に生きている。お祓いして、もとのすがすがしさに立ち返るのである。このような文化は、世界では異質なのである。

国連には、世界第2位のお金を出している(年間二四〇億円と言われる)のに、国連に加盟して48年にもなるのに(平成18年 2006年 50周年)、国連憲章(1945年 連合国によって制定)では、未だ敵国条項が削除されずにいるのである。敵国とは、日独伊などをさしている。
 1995年12月、国連総会で、「旧敵国条項の削除を検討する報告書承認」決議案を採択した。同決議は「国連憲章第五三条、第七七条、第一〇七条における『敵国』条項は死文化している」と記しているそうである。
 しかるに、現実はどうであろうか。全会一致で決議案を採択しているのに、何も変わっていないのである。国連ですら、こうである。国民の国連への幻想もほどほどにしたいものである。
 国連の中で日本は「敵」と見なされながら、多くの税金(240億円 世界第二位)を分担金ということで支払い続けている。たいしたものである。日本は。 
 世界のためである(しっかり機能すれば、そうであるとの話)。その心意気やよし。
でも、全然尊敬はされてないみたいだヨ。ちょっと寂しいね。日本人としては。 
 
●「看護婦」の言葉を抹消した平成の政治家(16.9.17)

永く愛用されて来た「看護婦」といふ言葉が、表舞台から葬り去られてしまつた。現在は、「看護師」なる表現にとつて変られてしまつた。男も女も同じ仕事をこなすので、看護婦ではまづくて、そのやうにしたのであらうが、なぜか釈然としない。いや、そこに現在の政治の精神の貧困と国語破壊を思はずにはをられない。
なぜ、看護婦といふ言葉を抹消しなければならないのか。抹消といふことを推進した連中におぞましい心が窺はれる。馬鹿もほどほどにしろと嘆かざるを得ないのだが、そのやうな嘆き声や罵声はほとんど聞えて来ない。このまま「看護婦」の言葉を否定して推移して行くことは、望ましいことなのであらうか。
日常生活は当然のことながら、色んな文学作品やドラマ等でも、看護婦で通つて来たものを、今なぜ否定しなければならないのか。もう少し、冷静に考へ、頭を働かせてほしいものである。それも考へ及ばない程に、平成の政治の良識とやらは、麻痺してゐるか失つてゐるといふことであらうか。

そのやうなことを思つてゐたら、一人反撃の狼火を挙げてゐる人を見つけた。産経新聞の塩原経央氏である。それに関した文章を氏は以前に発表されてゐるやうであるが、今手許にない。あるのはその後に発表された、(「婦」抹殺の裏で伝統文化の破壊)と題された文章である。(産経新聞 十六年四月二十七日)
氏の文章から推察すれば、「看護婦」といふ言葉がなくなり、「看護師」となつたのは、「「婦」の撲滅運動」があるからだと理解される。
「「『婦』は女へんに帚で女を家事に縛りつけようとする旧思想を表す字」という、今時のフェミニズムの主張におもね」とある。これが、そもそもの根底にあるのだらう。
「「婦」殺しは日本の古きよき伝統文化を破壊する日本版文化大革命である」と氏は指摘する。
このまま我々は、文化破壊の文化大革命を容認してゐていいのだらうか。
それにしても、お粗末な平成の政治であることよ。 よく考へて頂戴よ。
そのやうな政治を遂行させてゐるのは、愚鈍なる我々国民ではあるけれども。
目覚めよ日本! 目覚めよ国民! そして 「看護婦」の言葉を死守しよう。